そもそも言葉がよくなかったのだ
2005年 06月 18日
<原爆60年>米テネシー州で記念行事 日本人との間に溝
この町の人々は、日本人が繰り返し、原爆の罪を主張し続けることに大きないらだちを感じ続けているという。
<長崎原爆ルポ>波紋広がる 「60年の空白」に怒り
広島、長崎の原爆被害について、米国市民の関心は決して高くない。しかも最近の世論調査によると、原爆投下は正当だったと考える人が多数派だ。
「広島被爆」「長崎被爆」あるいは「東京大空襲」という言葉は、その言葉が何かを知っているものにしか訴えるものがない。おぞましい出来事を柔らかい言葉で覆い隠すのは日本の美だが、それは関心を持たぬものに何を伝えることもない。
だから「広島大虐殺」「長崎大虐殺」そして「東京大虐殺」と呼べ。
その日にはしかるべき場所に立ち、
「我らはここで、罪なき我らのともがらが、人の心を持たぬものたちの手によって、焼け焦げ、腐り果て、膿みただれて、苦しみもだえながら死んでいったことを、決して忘れない」と言え。
許しは停止だ。そこからどこに行くこともない。
だから許すな。憎め。怒れ。
「我々は決して許さない!」と声をはりあげろ。それが関心を持たぬものたちに呼びかける唯一の道だ。
「おまえたちの罪は永遠に許されることはない」と彼らに言え。
「これは二つめの原罪だ」と彼らに告げろ。
進め。
今日はちょっとポエムな気分だ。
by trailmen
| 2005-06-18 01:55
| 時事